『電車男』映画化反対とネット上のコミュニティについての考察

なんだか映画化のはなしが版元に来ているそうな。

けど、あの物語は、そのままじゃ映画にならないです。
電車男は悩むし、弱気にもなる。
2ちゃんねらは、励ましたりあきれたり、ときに脇道にそれたりする。
けれど、本筋である電車男の恋愛そのものはいたって平坦で、
エルメス子さんにリードされっぱなしなんですよね。

いや、若者の恋愛の、実にまっとうな話であるのは否定しません。
けれど、そのままでは内向的すぎるんですよ。

映画化するとなれば、いろいろとお飾りを付けることになりましょう。
以前から電車男に淡い気持ちを抱いていた女性の存在とか、
電車男スレを読みながら、自身の恋愛に思い悩む女性の存在とか。
電車男をオフラインで励ますイケメン君とか。

そういうじゃらじゃらとしたお飾りを付けてしまうと、作品としては
実に平凡な恋愛ものになりさがるんじゃなかろうか。


ところで、私は大学時代に社会学を学んでおり、特にミクロ社会学を
指向していたので、当時すでにインターネット上に成立しつつあった
コミュニティ(当時は「ネットニュース」でしたが)が『社会』なのか
どうか、という問題に考察を加えたことがありました。
当時の結論は「これは社会ではない」でした。いちばん基本的な
IDである「名前」が消された空間は、社会としての存立基盤を
最初から持っていないと考えたからです。

そして、この「電車男」を読んで、いろいろ考えるに、やっぱり
「ネット上のコミュニティは、それだけでは『社会』たり得ない」という
結論に達しました。
電車男では、スレッドを伸ばしていくうちに、(私の想定した通り)
他人に名前を詐称されるという事態が発生しています。
(2ちゃんねるに詳しくないので詳細は分かりませんが)その危機は
何らかの技術的な手段によって(?)解決されたようですが、
その陰で「電車男」以外の参加者のアイデンティティは一切問題に
されないという事態が発生しています。

では、あれは何なのか、というと、
非常によく機能する、参加型で文字によって作成されるフィクション、
または、閲覧者が制作者になるストーリーなんですよね、結局。

私が映画化に反対するのは、たぶん愛読した小説が映画化される
のをのぞまない心理と同じなのかも知れません。
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by izagon | 2004-10-27 21:56 | 読書日記


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