政教分離の原理から難ぜられるべき共同墓地論

靖国神社を首相が参拝すると批判する向きがあります。
田中真紀子氏などもそうですね。

一方で、彼女はアメリカ訪問時に、アメリカの戦没者墓地に
行って黙祷をささげています。
そして、靖国神社をやめて新しい国立の共同墓地を作るべき、
という主張をしていたように思います。
これはひとり田中真紀子氏のみの主張でなく、最近は
多くの言論の場で見られるようになりました。

私が不思議なのは、こうした主張は「政教分離」を唱えて
靖国神社への参拝を批判する方々からすれば、批判される
べきものだと思うのに、そうした観点からの「国立共同墓地」
批判が聞かれないことです。
逆に、「政教分離の原則に反する」と主張していた人が、
折衷案としてこの案を指示することさえあります。

しかし、
いったい、「宗教性の無い墓地」というのが成立し得るので
しょうか?

「死者を悼む」という観念については、特定の宗教との
関わりの無いものということはできるかもしれません。
キリスト教徒でも仏教徒でも神道信者でも、死者を悼む
感情そのものに大差は無い、とは言えるでしょう。

ところが、人間は観念のみで生きているのではありません。
なんらかの行動・行為が伴うものです。そして、行動・行為の
段階においては、特定の宗教から独立したかたちで
「死者への悼み」を表現することはできないと思うのです。

問いに換えます。
国立共同墓地に行った首相は、墓地で何をしたら、
政教分離原則にそむかないで済むのでしょうか?

試みに、自身の問いに自身で答えてみますが、
まず、そもそも「参拝」はできませんね。「行く」だけです。
同じく、現地でも「拝む」ことはできません。
ならば「黙祷」でしょうか?
しかし、「死者を悼む行為」として、国が「黙祷」だけを認めると
すると、国の行事において「手を合わせ」たり、「拍手を打つ」
ことは排斥されることになりませんか?
「黙祷」という習慣がどこの宗教に由来するのか寡聞にして
知りません。特定の宗教を優遇することになることは無いに
しても、特定の宗教を排斥する効果が出ることは間違い
ありません。


そもそも、「国家」というものが単なる機能の組織ではなく、
歴史性や精神性を持つものである以上、ある種の精神の
傾向(特定の宗教による後ろ盾を含む)を持たないでは
いられないと思います。
日本の外に目を向けて例を挙げても、枚挙にいとまが
無いですよね。アメリカ大統領は聖書に手を置いて国家への
忠誠を誓うといいますし、韓国の大統領はしばしば
(儒教的な)白い伝統衣装を着て国民の前に姿を見せたり
します。


脱線しがちですし、長くなったのでそろそろ結論を言いましょう。
厳密な意味での政教分離は不可能です。
そして、共同墓地論など大して意味の無い主張です。
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by izagon | 2004-04-22 14:12 | 沈思黙考


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