忘れられる日本人

フランス在住の友人と、「自己責任」に関してメールのやりとりを
しました。

フランスの著名な新聞で、
日本で言われている自己責任論は被害者や被害者の家族に対する
嫌悪感を表明するのに利用された中身の無いロジックである、
という趣旨の解説がなされたそうです(伝聞)。
的確な解釈だなあ、と思います。

ただ、それだけで片付けるのもどうかと思いもうちょっと考え、
また帰省したときに母にいわれたことなどを思い返して考え、
「それはそうなのだけど、日本人の精神的な伝統に基づく感情なり
判断なりを、日本人はいまだに近代の用語で表現できないだけ
なのではないか」という返信をしました。

帰省したとき、ふとテレビに映ったイラクのニュースを見て母いわく、
「もしお前がイラクに行って、捕まったとしたら、私とお父さんは
『息子が勝手にやったことですから、放っておいていただいて結構』
と言うからね」。
私こたえて、「俺あんな危ないとこ行かないよ。それに、行くとしたら
家族にも覚悟させるから」。
母またこたえていわく、「そうだね。で、どうしてもイヤだったら
無理でも止めさせるから」。

私の両親において見られたように、「死地に赴く人とその家族に、
それなりの覚悟を求める」という心性が、日本人にとって結構一般的
なのかな、というふうに考えて、フランス在住の友人に対して上記の
返信をしたわけです。

返信をしたあと、日本の仏教史を扱った新書を読みながら、また
考えさせられました。
日本の仏教の特質の一つに、『葬式仏教』と揶揄されるほど、葬祭に
深い関わりを持っていることが挙げられる、という箇所を読んでいるとき、
ふと以前出席した葬儀のことが思い出されたのです。

それは私が以前つとめていた会社に、同期で入社した男の葬式でした。
葬式は、「無宗教」形式とのことでした。
(とはいえ、遺影が飾られ、参列者は棺に花を入れ、最後の別れを
しました。つまり、仏教式の儀礼が流用されていました)

私は幾度かの葬式を経験することで、儀式が死別の悲しみを穏やかに
抑制し、家族を優しく(故人のいない)生活に導いてくれることを
理解していたので、無宗教形式の葬儀はいかにも無神経で
やり切れない仕方だな、と思っていました。

式の最後に、喪主である、彼の父親の挨拶がありました。
無宗教式の衝撃にまさる衝撃でした。彼の父親は、彼の葬儀の席で、
「事故や急病で若くして子供を失った人たちのネットワーク」の話を
しはじめたのです。

私は正直、薄気味悪いと感じました。
自分の子供の死とその悲しみを、自身で受け止めることや、家族、
知人、友人と分かち合おうとする前に、インターネットで知り合った
どこかの人と分かち合おうとしている、ということが、あまりに異常だと
思ったのです。
今、落ち着いて考えてみても、この父親は、私の宗教心とはあまりに
離れたところにいる、と思います。

どちらが正しいか論じる気はありません。
私の感じ方の方が伝統的な日本人に近いという気はしますが、
根拠はあまりありません。
これまた根拠はありませんが、もしかしたら私のような感じ方をする
人間は、もはや消えゆく定めなのかな、というような気がしています。

「死地に赴く覚悟」についての考え方も、もはや私や我が両親の方が
古い、おかしいのかな、という気は少ししました。
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by izagon | 2004-05-05 23:20 | 沈思黙考


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